終戦記念日に思う
- 和久 眞山
- 8月15日
- 読了時間: 4分

先日、「決戦前夜」という映画を観た。
この映画を観て強く感じたのは、「日本を戦争へ導いたのはいったい誰だったのか」という疑問である。
映画には、アメリカとの戦争になった場合、日本が勝てるのかを研究する機関が登場する。実際、太平洋戦争開戦前の総力戦研究所では、日米戦争を想定したシミュレーションが行われ、日本が最終的には敗北するという結論が導き出されていた。
つまり、日本には戦争を始める前から、「この戦争は日本にとって非常に厳しいものになる」という分析が存在していたのである。
それにもかかわらず、日本は戦争への道を進んでいった。
映画では、研究者たちの分析が政策決定に十分生かされず、さらに政府が報道機関を通じて国民に戦争を支持するような情報を発信し、戦争へ向かう世論を形成していった様子も描かれていた。
では、誰が日本を戦争へ導いたのだろうか。
軍部なのか、政府なのか、政治家なのか、報道機関なのか。それとも、戦争を支持する空気をつくり、それを受け入れていった社会全体なのか。
私は、一人の人物だけに責任を求めることでは説明できないと思う。
そして、もう一つ考えなければならないのが、戦争によって利益を得る企業や産業の存在である。
戦争には、武器や弾薬だけでなく、航空機、艦船、車両、燃料、通信、食料、医薬品など、膨大な物資が必要になる。戦争が長期化すればするほど、そこには巨額のお金が動く。
もちろん、「企業が利益を得るから戦争が起こる」と単純に考えることはできない。しかし、政治、企業、軍需産業などの利害が複雑に絡み合えば、それが国家の意思決定に影響を与える可能性については、考えておく必要があるのではないだろうか。
私は、ここで「平和の祭典」と呼ばれるオリンピックのことも思い浮かべる。
オリンピックは平和、友好、国際交流を掲げている。一方で、その裏側では放映権、スポンサー、広告、観光、施設整備など、巨額の経済活動が動いている。
もちろん、オリンピックが利益だけを目的としているという意味ではない。
しかし、平和を掲げるイベントでさえ、理念と経済活動が同時に存在している。
そう考えると、戦争についても、表向きに掲げられる「国を守る」「自由を守る」「平和を守る」という大義だけを見るのではなく、その背後で誰が利益を得ているのか、どのようなお金が動いているのかを見る必要があるのではないだろうか。
戦争は、突然始まるものではないのかもしれない。
政治的な対立が生まれ、軍備が増強され、企業が武器や物資を供給し、予算が拡大し、報道によって世論が形成され、相手国への不信や敵意が高まる。
そして、いつの間にか「戦争もやむを得ない」という空気が社会に広がっていく。
それぞれは小さな判断であっても、それが積み重なったとき、国家全体が戦争へ進んでしまうのではないだろうか。
戦争を経験した日本は、その後も難しい選択を迫られた。
湾岸戦争では、日本は戦闘への直接参加を避け、資金面で国際社会に協力した。しかし、「お金だけでは同盟国として十分ではない」という厳しい批判も受けた。その後、戦争終結後には海上自衛隊の掃海部隊をペルシャ湾へ派遣した。
この経験は、「戦争に参加しないこと」と「国際社会の平和に責任を果たすこと」を、どのように両立させるのかという難しい問題を私たちに残した。
だからこそ、私は戦争が始まってから「どう戦うか」を考えるのではなく、戦争を始める前に「どうすれば戦争を避けられるか」を考えることが重要だと思う。
国家同士に対立があるなら、武器を使う前に、まず話し合う。必要であれば第三者となる国際機関が仲裁する。外交と国際的なルールによって、紛争を解決する仕組みをもっと強くしていくべきではないだろうか。
終戦から81年。
終戦記念日は、戦争で亡くなった方々を追悼する日であると同時に、
「なぜ日本は戦争へ進んだのか」
「なぜ、負ける可能性を示す分析があったのに、戦争を止められなかったのか」
「戦争によって利益を得る構造は、政治や社会にどのような影響を与えるのか」
そして、
「私たちは同じ過ちを繰り返さないために、何ができるのか」
を考える日でもあると思う。
「決戦前夜」は、戦争の悲惨さだけではなく、戦争へ向かう社会の中で、誰が判断し、誰が声を上げ、そして誰がそれを止めることができたのかを考えさせてくれる映画だった。
そして、その問いは81年前の日本だけではなく、戦争が続く現在の世界にも向けられている。
「戦争を始める前に、それを止めることはできなかったのか。」
終戦記念日の今日、改めてこの問いを、私たちは歴史から学び続けなければならない。



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